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一般学生団体「筑波大学地理愛好会」の公式ブログです。会の活動や、会員がそれぞれ執筆した記事を投稿しています! 地理愛好会とは?→2018年活動開始。地理好きや地理を学びたい筑波大学生が集まるサークルです。全国各地への巡検や学類間交流、勉強会などを行っています。

徒歩旅行

5日目(3/26) 草津温泉

4日間の行脚を終えたら、一度草津温泉に浸かってから帰ろうと決めていた。高崎まで歩いた!帰ろう!では味気ないしね。

ということで、4日間の疲れを癒すべく、草津温泉に向かう。DSC_1293

上州の山々が見える。俺は群馬にいるぞ。

ここまででほとんど無視してきた鉄道を利用すべく高崎駅に向かう。実は両毛線に乗るのは今回が初めてである。
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わーい。

新前橋駅で吾妻線に乗り換える。正確には上越線で、渋川から先が吾妻線で直通らしい。

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たぶん榛名山。

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川原湯温泉駅にて八ッ場ダムを望む。数十年にわたり建設を巡る紛糾が続いたダムだが、2019年の台風19号で治水効果を見せたことでも話題になった。ここが例の場所かぁ。

長野原草津口駅にてバスに乗り換える。後ろのお姉さん二人組が誰かの悪口合戦をしていて若干気分が悪い。

 

11時頃、草津温泉に着く。コインが多く投げ込まれた源泉からは、沸々といかにも熱そうな湯が湧いている。硫黄の臭いが周囲にうっすらしている。温泉地に来たことを実感する。
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超有名な湯畑。


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日帰り温泉は「大滝乃湯」というところにした。大浴場や露天風呂に加え、いくつかの浴槽に分けて徐々に温度が上がっていく「合わせ湯」も楽しめ…なかった。3月後半といえば卒業旅行にウェイが大挙して草津温泉に訪れる時期であり、ボッチの私には肩身が狭かったためである。温泉くらい黙ってゆっくり浸かったらどうなんだ。

 

お昼ごろに昼食をとるためかようやく人が減ったので、なんとか私もくつろぐことができた。

 

風呂から上がると、快晴が一転して小雨になっていた。昼食を食べる間にやり過ごせるだろうか。
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昼食は焼肉定食にした。おいしい。

 

いつの間にか小雨が雪に変わっていた。これなら逆に湯畑の方まで戻ることができる。

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写真だと非常に伝わりづらいが、雪が大量に舞っている。温泉の湯気と相まって少し幻想的である。来てよかった。

寒いので暖かい甘酒や温泉まんじゅうも買った。かなり満喫できた。
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結構満足したので、お土産を買ってバスに乗り込んだ。お土産は温泉まんじゅうにした。お土産屋に「グンマークサツオンセン」と書かれたTシャツがあったが、すんでのところで買うのを踏み留まった。
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特急草津。帰るぞ。

車窓からは、赤城山や榛名山が見える。なんというか、哀愁がすごい。

あんなに苦労して歩いた道を、飛ぶように通り過ぎていく。あの川を越えた、あのホテルに泊まった、あのスーパーで買い物をした、あそこに腰を掛けた…。そうした場所が車窓を飛んでいく。

あっという間に上野に着いた。人がホームに歯ブラシみたいに並んでら。東京、なんか気温がぬるい。

また早く次行きたいなあ…。


第一回は完。


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4日目(3/25) 本庄-新町-倉賀野-高崎? 21.8km

〇本庄-新町
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朝起きてカーテン開けたらハトおった。

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道中飲むためのお茶を買いに「ベルク フォルテ本庄店」に行ったらこんなんあった。え、ここ雪降るの?


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本庄宿の街並み。

正直時が止まってしまっているように感じる。旧中山道沿いは交通の中心から外れてしまったようだ。一方で、足利銀行や埼玉縣信用金庫などの支店がこの通り沿いに立地し、かつては確かにここが中心地であったことをうかがわせる。

物の本によれば、江戸時代には利根川水運と中山道の陸運が交わる交通の要衝であったことから、本庄宿は中山道で最大の宿場町であったという。
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本庄宿名主であった戸谷家が経営する「戸谷八商店」は、看板に「創業永禄三年」とあるように、瀬戸物などを扱う埼玉県下で最古の企業であるが、戸谷八商店のサイトを参照すると元々は利根川を利用する廻船問屋であり、本庄宿の初期の町づくりを担ったらしい。

また近代以降も12代目戸谷八郎左衛門は道路建設や製糸工場・本庄商業銀行などの企業の設立に出資し、上毛電鉄の誘致を試みるなど、本庄の発展のために尽力したという。
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しかし、現在ではそうした繁栄の歴史は見る影もないように見える。上毛鉄道の誘致が成功していればまた違った街並みになっていたかもしれない。


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954分、「金鑚神社」を訪れ、旅の安全などを祈る。

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今日の目標は大都会高崎である。気張っていこう。


1131分、神流川を渡り、長かった埼玉県を越え、群馬県に突入する。今回の旅の終わりも近い。「神流川」は「かんながわ」って読むのか。

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「お昼も近いし、新町宿あたりで昼食にしたいな~w」などと考えている。

〇新町宿(1137分着)

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昼飯…にしようと思ったが新町宿なんもねえ…。

しょうがないので通過する。

〇新町-倉賀野 7.9km

古そうな住宅を縫う細っそい旧中山道を通り抜け、烏川の土手に上がる。

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三菱鉛筆、こんなとこで作ってたんだ。

土手を降りて、また住宅街を進むと、こんな場所に出る。
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烏川を渡りたいんじゃが、渡し舟はどこかのう…。

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柳瀬橋を渡り、高崎市に入る。

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1331分、「ラーメン山岡家」での昼食。ここまで来て山岡家か…。屈辱。

〇倉賀野宿(1421分着)
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倉賀野宿に着く。ここ倉賀野宿は日光例幣使街道との追分にあたり、また利根川支流の烏川に面した河岸を持ち上州の諸大名の廻米などが積み出されるなど、交通・物流の要衝であった。

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現在の倉賀野宿。やはり時が止まっている。

高札場が再現されており、正徳元年の高札や、「五榜の掲示」の一部などが掲げられていた。

〇倉賀野-高崎 4.9km

1452分、倉賀野宿を発つ。今回は高崎までで一区切りとするつもりなので、歩く分もあと4.9kmで終わりである。

なんか物足りねえよなあ。

〇高崎宿(1538分着)

高崎、着いてしまった。しかしまだ日も落ちていないし、死ぬほど疲れてるわけでもない。まだまだ余裕があるし、地獄が足りてない。
これは次の宿場町、「板鼻宿」まで今日中にたどり着けるのでは?
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「高崎駅」というのはなにをする建物なんでしょう???

〇高崎-板鼻 8.5km

ということで、引き続き旧中山道を進む。針路を西へ変え、安中方面に向かう。
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「君が代橋」なる橋にて、再び烏川を渡る。明治天皇の行幸を記念しての命名らしい。

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「右 くさつみち」とある。草津温泉は明日、連日の疲れを癒すために 行く予定だ。


この辺りから、いよいよ山が近くに迫ってくる。ここまでは中山道歩きのチュートリアルであったことを思い知らされる。

それと同時に、難所と名高い碓氷峠に近づいていることを思い知り、それを越えるのかと何やら恐ろしい気持ちになってくる。































1657分、「長野 115km」の青看板が初めて登場する。


次回は115km先の長野善光寺を目指すんだよな…。


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何やら独創的なオブジェが立つ「だるまのふるさと 大門屋」。高崎といえばだるまであるが、もしやここで作ってるのか…?


〇板鼻宿(1733分着)

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板鼻川を越え、板鼻宿に着く。ノリで板鼻宿まで歩いたが、案外正気を保っている。

夕食を旅籠跡に建つカツ丼屋の老舗、「板鼻宿」にてとる。
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内装は昭和レトロで、非常に雰囲気が良い。相撲中継が流れている。

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カツ丼、おいしい。このカツ丼を食べ、延べ120.3kmの徒歩旅を一旦締めくくった。

つぎ
 

参考文献

[1]八木牧夫『ちゃんと歩ける中山道六十九次 東 江戸日本橋~藪原宿』山と渓谷社 2014 P60

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3日目(3/24) 熊谷-深谷-本庄 23.0km

〇熊谷-深谷 11.9km

99分、ホテルを出て、熊谷駅の東側へ向かう。途中「ベルク 熊谷銀座店」にておーいお茶を3本ほど買う。

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実は熊谷にもある「筑波」の地名。

千形(ちかた)神社、熊谷寺(ゆうこくじ)を訪れる。

いずれも源平合戦で源氏に味方し活躍した熊谷直実に縁があるらしい。

 

国道17号から旧中山道に折れ曲がる手前に埼玉県初の百貨店として開業した「八木橋」があった。平日にもかかわらず駐車場に車が次々と吸い込まれていた。
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某の影響により全国で百貨店の閉店が相次いでいるが、おっきい商業施設は好きなのでこういう地場の百貨店には頑張って生き残ってほしいと、余所者ながら思った。

既に3日目で70kmほど歩いているためか、足や肩の痛みがひどくなってきている。
ホテルの朝食でパンしか食べてないのもかなりきている。昨日の疲れがとり切れてないのもあって正直しんどい。Vtuberの配信アーカイブなどを聞き流し士気を高める。

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真っ平ら。

道中にはどこにでもある「串カツ田中」(大阪伝統の味)や、ケヤキの切り株だけ残る一里塚跡などがあった。

深谷で昼飯にしよう。

〇深谷宿(1228分着)
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深谷は小麦粉の産地が近いことから「煮ぼうとう」という郷土料理が有名らしいので、「虎ひげ」というお店でそれを食す。
埼玉県はうどん系が強いのは、中山道を歩くまで知らなかったなあ。
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DSC_1177深谷といえば渋沢栄一である。2024年から1万円札になるとあって、深谷市民は大喜びのようである。


渋沢栄一は深谷出身の実業家で、明治日本の近代化に経済面での多大な功績を遺した人物であることは周知の通りである。

渋沢栄一は地元深谷の利根川によってもたらされた良質な粘土を用いて煉瓦を製造する「日本煉瓦製造」という工場を設立し、これにより深谷は煉瓦との深い関係を持つようになったことは、既に有名だろう。

 

この歴史をアピールすべく、深谷では深谷駅の駅舎や市役所がレンガ造りとなっている。DSC_1183
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それはそうと、左足の痛みが限界なので、ウェルシアでロキソニン買った。結構楽になるもんだ。

 

宿場町らしい古そうな建物もあった。
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〇深谷-本庄 11.1km

1444分、深谷を発つ。

深谷を出てしばらく歩くと、高島秋帆が幽閉された場所へ案内する看板が立っていた。

高島秋帆という名前は、日本史選択者には聞きなじみがあるかもしれない。彼は江戸後期の天保年間に西洋砲術の演習を江戸郊外の徳丸ヶ原において行ったが、保守派の目に留まり幕府から追放された人物である。
ちなみにこの徳丸ヶ原は現在、彼の名前が由来で「高島平」という地名になっていて、高度経済成長期に作られた団地が立ち並んでいる。都営三田線に乗ったことがある人は聞いたことがある地名かもしれない。
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案内板にはその後彼は弟子の江川太郎左衛門なる人物の尽力で許されたとある。この江川太郎左衛門は韮山代官として韮山反射炉の建設などを行った江川英龍だろうか。

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進行方向右手奥が一気に低い土地になっている。利根川を渡り群馬県に入るのも近そうだ。

旧中山道は右に折れ曲がり急坂を下る。164分、疲労でかなり疲れてきたので坂の途中にある八坂神社で小休憩をとる。独特の明るさが魅力の80sユーロビートを聴き、士気を高める。

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滝岡橋を渡る。近代土木遺産に指定されているらしい。へぇ。

いつの間にか地平線を山々が覆うようになってきた。群馬が近いぞ~。

〇本庄宿(1726分着)
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日がまだ少し残ってるうちに到着できた。体力も心なしか余裕がある。DSC_1210
ホテルからの眺め。よい。

ベッドに倒れたら起き上がれなくなった。

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疲労によりガクガクになった足取りで夕飯に向かう。この日の夕食は本庄駅南口の「東麺房」というお店でラーメンをいただいた。疲れすぎて味の記憶がない。多分美味しかった。

つぎ

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2日目(3/23) 大宮-上尾-桶川-鴻巣-熊谷 36.1km

〇大宮-上尾 8.4km
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おはよう!ケヤキ並木のある氷川神社の参道で、コンビニのおにぎりを朝食として食す。
ハトに米粒一つを恵んだら嘴にくっついちゃってかわいそうだった。

氷川神社で交通安全などを祈り、848分熊谷に向け出発。

912分、マルエツ大成店にてお手洗いを借りるついでに一日分の飲料も調達。

40分ほど歩いた地点で、今回の苦行旅行で初めて農地を見る。東京から離れたことを感じる。1016分、上尾市に入る。電柱の地名表示を見ると、「栄町」とあり、境町が転じたものらしい。そのまま進むと、上尾の総鎮守、氷川鋤神社が左手に見えてくる。

〇上尾宿(1040分着)
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上尾の宿場町は現代では駅前の通りになっていて、綺麗に整備されている。

物の本[1]によれば上尾宿は江戸を4時台に出発した旅人の一泊目の宿場となり、大いに栄えたらしい。江戸時代の人々、健脚すぎる…。

〇上尾-桶川 3.7km

上尾の駅前からしばらく歩くとこのような看板があった。
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紅花といえば山形県村山市の特産品として有名だが、ここ埼玉県の上尾から桶川にかけての一帯でもそれに次ぐ規模で栽培されていたらしい。
上尾市の発行する『広報あげお』平成251月号のコラム「上尾歴史散歩」(P34)[2]によれば、「紅花の栽培は江戸商人の柳屋五郎左衛門の手代が上村(上尾市)に種を遺して栽培させたのが始まりと言われる」そうだ。村上のものより時期が早く、高値で取引されることもあったという。
上尾の意外な一面を知ることができた。

1114分、桶川市に入る。

〇桶川宿(1119分着)

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一日と半日ほどをかけて桶川宿に到着した。案内看板によると、桶川宿も上尾宿と同様に江戸時代には一泊目の宿場町として栄えたそうである。日本橋から43kmもあるんですけど…。浦和でヘロヘロになっていた私とは大違いである。
桶川宿には写真のような古い建物が旧中山道沿い
に点在している。歴史の古さを感じるとともに、江戸から離れるごとに往時をしのばせる建物が増えているように思う。

桶川宿は上述の案内看板によると、この地域で盛んに栽培された麦の集散地として栄えたようである。現代でも埼玉県発のうどんチェーン「山田うどん」が有名だが、こうした地理的な背景あって埼玉県にはうどん文化が根付いているのかもしれない。
昼はうどん食おっと。

〇桶川-鴻巣 8.3km

1134分、桶川を出る。Vtuberの配信を聞き流し士気を上げる。あやマリてぇてぇ。

1145分、北本市に入る。今日の日程には中山道中最長級の鴻巣熊谷間15.7kmが含まれているので、それに備えて「もち吉 北本店」で「えん餅」というお菓子を買う。

鴻巣も遠いなぁ。

〇鴻巣宿(1328)
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鴻巣に着いたはいいが、スマホの調子が悪い。開けないアプリがある。Googleマップも地図を表示できなくなっている。これは困った…。なぜかTwitterだけは使うことができる。私のXperiaくんはTwitter専用機になってしまった。

それはそうと、1414分、「長木屋」にてうどんを食べる。とろろとうずらの卵がかかっていて美味しかった。
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ドコモショップに駆け込んだら、Googleの障害だということだ。Twitterで応急処置の方法が流れてきたので事なきを得た。

〇鴻巣-熊谷 15.7km

スマホの機能がほとんど使えなくなったのがあまりにもおそろしかったので、鴻巣の総鎮守、「鴻神社」に立ち寄り、旅の安全を強く、強く願った。アマビエのおみくじも買った。
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アマビエみくじの結果は大吉であった。「〇旅行 遠方に行き利益あり。」だそうだ。やったぜ。

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1443分、鴻巣宿を発つ。しばらく進むと「氷川八幡神社」がある。源融などの流れをくむ嵯峨源氏の一派の箕田源氏に縁があるらしい。源仕は清和源氏の源経基に仕え、承平天慶の乱にて功を立てたとかなんとか。さいたま市白幡にしても、このあたりは平安時代の武家の名残が多そうだ。

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巨大な人口を抱える首都東京の水需要を賄うべく築かれた武蔵水路。東京の人間はこれに生かされている。

16時を回り、そろそろ疲労が蓄積してくる。吹上あたりで休憩をとることにする。

 

1633分、吹上に着く。吹上は幕府公認の宿場ではなかったが、鴻巣から熊谷までが16km弱と長かったため、茶屋や休憩所、宿場などが立ち、また八王子千人同心街道と交わる地点であることから「間の宿」として大いににぎわったという。私もここで休憩をとろうと思う。
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北本で買った「えん餅」が染みる。この旅行全体を振り返っても、この時食べた「えん餅」はかなり上位を争う美味しさであった。長い鴻巣熊谷間に「間の宿」が立つのも納得である。

1652分、吹上を発つ。高崎線の跨線橋から眺める夕日が妙にきれいだった。
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跨線橋を渡り、しばらく進むと荒川の土手を歩くことになる。


途中の中山道の案内看板によると、熊谷まであと二里もあるらしい。なっが。


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荒川の土手に上がりしばらく歩くと、「決潰の跡」が立てられていた。そばの案内看板によると、19479月、カスリーン台風による洪水のため堤防が決壊し、東京にまで及ぶ大洪水が発生し、多数の死傷者や行方不明者が出たそうだ。
この部分には現在当時よりも高い堤防が築かれている。このことによっても東京に住む私は守られているのかもしれない。遠くまできたように思っていたが、無縁ではなかろう。

荒川の河川敷には菜の花が広がっていた。春だなあ。
東京では見ない秩父や群馬の山々が遠くに見えている。

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大きな石碑の横にかるた札があった。恐ろしい水害に悩まされ続けてきた地域性がうかがえる。

18時を過ぎ、日も沈んでしまった。早く着かないとまずいが、精神的にも限界が近い。ウルトラマンメビウスのOP曲に元気をもらい歩みを進める。悲しみなんかない世界。愛をあきらめたくない。どんな涙も必ず乾く。

 

イヤホンの電池切れた。やばい。

この時のツイートを見たら「にゃーん」とか「にゃんにゃん」とかしかつぶやいてないので、やばさがうかがえる。

〇熊谷宿(1828分着)
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熊谷宿手前。ホテルの立地の関係で、宿場は駅の反対側だがここで一日を終える。

ホテルに着きベッドに横になったら立ち上がれなくなってしまった。

生まれたての鹿のような足取りで起き上がり、行けば何かあるだろうと思って駅ビルを目指したが、某の影響で20時に閉まるらしい。夕飯どうしよ。

今この世界には36km歩いても食にありつけない人もいます。

 

ガストがなぜかやっていたのでそこで肉をかっ食らった。

高いのにあっという間になくなった。

つぎ


参考文献

[1] 八木牧夫『ちゃんと歩ける中山道六十九次 東 江戸日本橋~藪原宿』山と渓谷社 2014 P31

[2]上尾市『広報あげお』「上尾歴史散歩」2013 P34

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この記事は、徒歩のみによって旧中山道と旧北国街道を進み、長野県長野市の善光寺を目指す旅行を記録したものとなります。こういう旅行をしてきたと会長に話したら圧強めにブログ記事を書かないかと言われたので、長々と複数記事にわたって投稿していこうと思います。KIAIたっぷりな旅行だし、ぴったりだよね。

〇はじめに
そもそも、なぜこんなことをしているのかと、これを読むほとんどの人が思うはずだ。そこで、この旅の動機を軽く綴っておきたい。
元々私はどこかへ出かけることが好きであり、高校時代から長期休みなどに実家から日帰り旅行へ出かけることがままあった。ところが高校三年生になると受験勉強に追われ、全くそれどころではなくなってしまった。そこで旅行に行きたい気持ちを静めるべく、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の現代語版を読み始めたのだが、かえって旅行に行きたい欲を高めることとなった。同時に、鉄道や車などを使わず徒歩だけで十数日かけて目的地を目指す、江戸時代さながらの旅行に憧れをもつようになった。
受験が終わったら東海道を歩いて京都を目指す旅行をしよう、これが元々の動機であった。
ところで、受験が終わったら善光寺に旅行に行こうと言ってくる先輩がいた。そこで折衷案として中山道と北国街道を歩いて善光寺を目指すことになったのだが、その人は急な用事により数日に及ぶ時間が作れず、私だけが旧街道を歩く旅に放り出されることになった。

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日目(3/22) 日本橋-板橋--浦和-大宮 30.9km

〇日本橋-板橋 10.8km

322935分、五街道の起点である日本橋を出発し、はるか善光寺を目指し始めた。
お年寄りの原宿、巣鴨の長い長い商店街を抜けて、都電荒川線の庚申塚駅を横目に進み、埼京線を踏切で越えて、首都高が頭上を通る国道17号を渡ると、そこには都内の活気ある商店街が見えてくる。これが江戸四宿の一つ、板橋宿となる。現代でも活気に溢れており、よい。

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「板橋」という地名は文字通りこの地にあった板でできた橋が由来であるらしい。

〇板橋宿(1141分着)
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北京飯店というお店にてラーメン。オーソドックスな醤油ラーメンといった感じで美味しかった。
この時はまだまだ元気いっぱいである。

〇板橋-9.3km

0時20分、板橋宿を出る。国道17号に合流して、しばらく進む。途中で左にそれて再び北に向かうと、大きな坂があって崖になっている。荒川が近そうだ。DSC_1079

新幹線を横目に戸田橋を渡る。ここは江戸時代には元々「戸田の渡し」から出る舟で荒川を越えていたが、1875年に木製の橋が架けられたそうだ。

ここからは埼玉県になるが、なんだか天気が怪しくなってくる。

国道17号をそのまましばらく北上して、右側の比較的細い道に入ると、蕨宿に至る。

〇蕨宿(14時9分着)
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なんてことない生活道路に面した住宅街に見えるが、随所に往時の面影を残す古い建物があったり、この道の幅感といい、ここが宿場町であることをなんとなく感じさせる。そう感じるように整備している部分もあるだろう。
このあたりでかなり足などがしんどくなってくる。そこで「蕨市立歴史民俗資料館」で休憩しつつ街の歴史について学ぼうかと思ったが、休館日で入れなくてぴえん。

〇蕨-浦和 4.7km

1430分、蕨を発つ。今日の目標は大宮である。あと11km弱だ、気張っていこう。しばらく歩くとちょっとした用水路がある。これは見沼用水の分水で、現在は蕨市とさいたま市の境界になっている。とうとう目標の市町村に入った。

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途中で「白幡」なる地名にすれ違った。物の本[1]によると、藤原秀郷が平将門の鎮圧のために源氏の白い旗を立てたことに由来するのだとか。ほんまかいな。

疲れから、正しい方向に曲がり忘れて道を引き換えすなどしつつも、なんとか浦和の市街地にたどり着く。疲れるとひたすら歩くことしかできなくなるからよくない。

〇浦和宿(1542分着)

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はい浦和。疲労。

〇浦和-大宮 6.1km

えぇ…まだ大宮着かないの…?なんか雨降ってきたよ…。もう大宮が来いよ…。

そんなことを考える。「インターナショナル」などをききながら自分を鼓舞し、さいたま新都心のクソデカ建物の横を通り過ぎると、赤い鳥居と並木のある長い参道が見えてくる。

〇大宮宿(1645分着)

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やっと着いたよ、大宮。1729分にようやくホテルにありつく。思ったより数倍つらかった。これでは旅行というより苦行じゃないか。
この日は疲れた足で街に繰り出し、洋食屋でオムライスを食して眠りについた。

つぎ


参考文献

[1]八木牧夫『ちゃんと歩ける中山道六十九次 東 江戸日本橋~藪原宿』山と渓谷社 2014 P23


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